吉田簑助さんの引退興行は1日繰り上げ

投稿者: | 2021年4月24日

この記事をざっくり説明すると……

吉田簑助さんの引退

4月の文楽公演で引退することを表明していた人間国宝の吉田簑助さん。

国立文楽劇場(大阪市中央区)が大阪府の緊急事態宣言発出を受けて25日だった千秋楽を24日に繰り上げることにしたため、最後の舞台が1日早まってしまいました。

参照

文楽人形遣いの人間国宝、吉田簑助さん引退へ「力出し尽くした」

文楽協会は15日、人形浄瑠璃文楽の人形遣いで人間国宝の吉田簑助(みのすけ)さん(87)が、国立文楽劇場(大阪市中央区)で開催中の4月文楽公演の千秋楽(25日)で引退すると発表した。簑助さんは協会を通じて「人形遣いの道を歩み始めて今年で丸81年。人形遣いとして持てる力のすべてを出し尽くしました」とのコメントを発表した。

1942年、桐竹紋二郎を名乗り、翌年に「絵本太功記」で初役を遣った。61年、三代目吉田簑助を襲名した。「曽根崎心中」のお初のような世話物の遊女から、「義経千本桜」の静御前、「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫など時代物における気品ある役など文楽の女形のほぼすべての役を手がけ、華やかで情感のある芸で観客を魅了してきた。故・初代吉田玉男の遣う徳兵衛とのコンビで簑助さんがお初を遣った「曽根崎心中」は、名舞台として知られた。94年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、2009年に文化功労者になった。

98年、国立文楽劇場での公演期間中に脳出血で倒れて入院したが、「もう一度、(若手が担う)足遣いでもいいから舞台に立ちたい」という思いでリハビリを続け、8カ月後に舞台復帰。その後も次々に大役を務め、桐竹勘十郎さんら多くの後進を育てた。

 戦後の文楽を支えてきた人形遣いの玉男、初代吉田文雀、文楽が二つに分裂した時代に共に興行の辛酸を体験した太夫の七代目竹本住太夫ら、仲間を次々に見送ったが、現在に至るまで人形に生き生きとした生命を吹き込む芸の力は衰えず、文楽界の精神的支柱であり続けた。

近年は、これまでの当たり役を後進に譲ることが多くなっていた。開催中の4月文楽公演では第2部の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で錦祥女(きんしょうじょ)を遣っていた。

 簑助さんはコメントで、「脳出血で倒れ復帰してから22年。体調が思うにまかせないこともありましたが、曽根崎のお初も八重垣姫も静御前も再び遣うことができました」と振り返った。【畑律江】

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文楽のツボ /NHK出版/葛西聖司